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ブログを書くのには才能がいるのか? 才能の見つけ方?

                                   ブログを書くには、才能が必要なのか?

 

 

誰にでも文章は書けると思う。そう考えると、ブログへの参入障壁はかなり低いように感じる。

だけど、いざ書こうとパソコンを前にすると手が止まる。

なんでも書けるっていうのは、自由であるが、自由で広大な大地を目の前にすると、どこに向かって歩き出せばいいのかがわからなくなる。

多分、誰かが前に舗装した道でもあれば、最初はそこから進むんだろうけども、

そうなると二番煎じどころではなくなる(それでもいいけど)。

 

次に、辺りを見渡せば、多種多様なものが目につく。

だが、それらについて何かを書こうと思っても、特に深い思い入れもないし、なんなら興味もないものが多いのだ。

 

そうなると、自分は普段何を考えて生きているのだろう?と自問自答をしてしまう。

何かにつけての意見はあるが、意思表明まではいかない感じである。

 

ブログを書くぐらいでそんなに切羽詰まらなくても、もっと気楽にしなよ。と言われたらそうなのだが、ブログを書く上である種の継続をしないと、多分ずっと放置する羽目になる(実際、以前放置した)。 

やっとの思いでなんとか書き出し、なんとか書き終えたとしても、その出来はイマイチのように感じる。

そうなると、 文章は誰でも書けるが、ブログを書くには才能の有り無しは大きいと実感をする。

 

どうして文才がある人は、あのような文章が書けるのかが不思議である。

使っている道具は同じである。脳と手とパソコンである(スマホからの人もいるだろうけど)。

何がどう違うのかさえ、わからないのだ。

わからない事がわからないのである。

 

似たような話で、

字が上手い人を見ると同様に、どうして上手いのだろう?とも思う。

子供の頃から同じ練習をしたはずである。

字には美しいとされる正解があるから、みんな同じ正解を目指したはずである。

 

勿論、練習量の違いもあると思うが、こんなに人によって違うものだろうか?と不思議である。

脳のシナプスの伝達が悪いのかもしれないし、手の微妙なクセの問題かもしれない。

数ミリ顔のパーツが変わるだけで、顔の印象が変わるように、小さなズレが文字でも大きくなって現れる。

 

人間という生き物はマクロで見れば、そんなに変わりはないが、ミクロで見れば随分と個体差がある。 そんな感じある。

 

ブログを書くには才能がいるのか? 

まぁなくても特段困ることはないと思うけど、豊かな文章を書くにはやっぱり才能がいるし、

才能があったとしても、書く題材について何にも興味が無ければ、その才能を上手く活かす事ができない。

 

そして何より、継続できるかがかなり重要である。 

ブログを書くのにも、複合的な才能が必要なのですよね。

 

・才能の見つけ方。

 

何かの才能有無は見た目ではわからないものが多い。

秘めている才能は、100m走の選手の体を見て、明らかに走るのが速そうだなと感じるのとは訳が違う。 

そして、見えない才能を探すのは、ドラクエの宝箱みたいにとりあえず何が入っているかわからないけど、いちいち開けて確かめる事が大切なんだと思う。

何もないかな?と思っても、箱を開ける事が重要である。

 

スポーツの中で、あなたはホッケーが異常に上手いかもしれない。

けど、ホッケーがやる機会がなかったから、気づかないだけかもしれない。

僕の友人でスポーツは平均的なものだったが、水泳で全国大会出場した友人がいるし、運動音痴だが長距離だけは異常に速い友人もいた。

引退した野球選手のイチローがバスケットボールが全然できない動画を観た事がある。

そう考えると、人には適材適所があるのだと思う(そりゃ万能の人もいるけどさ)。

開ける機会がない宝箱を、自分から開けに行くのはかなり重要である。

何事もやってみなきゃわからない。

 

僕は、

 

カチャ!

 

パカ!!

  

 ・・・・・・。

 

の連続であるけども。

 

まぁ開けてはいる。地味に。それでもいいけども。

2010年代の音楽シーンは豊富だったよね。

      あの頃はよかった、昔の方がよかった。

 

と人は言いがちである。自分が過ごした青春時代などを良かったものだと思いたいのだ。

 

僕の青春時代は2000年代の方に多く浸かっていたが、2010年代の音楽シーンは2000年代の音楽シーンより、面白かったと思う(勿論、それは個人の感想であり、何を基準にして良いか悪いかを決めるのかは微妙なのだが)。

 

まぁ、 なぜ2010年代の音楽が面白かったかと言えば、参入障壁の低さだと思う。

 

つまり、誰でも音楽を作り、誰でもネットにアップできるようになったからだ。

 

そして、時代のスピード感のおかげで、色んなジャンルが10年間の間に勃興した。

 

僕は基本的にはロック好きなので、海外のロックシーンの低迷、その面は寂しかったのだが、それ以外でも面白い音楽がわんさか出てきた(特にヒップホップは後世に名を残すであろう名盤がいくつも生まれた)。

 

一方、日本の邦楽シーンも面白かった。

特に2010年代中盤から起こった、シティポップリバイバルは特に印象に残った。

今では少し勢いが落ち着いたのだが(70、80’sのは除く)、

若者たち(僕と同世代)が鳴らす音楽に正直驚きました。

 

しかし、一方で、ストリーミングサービスの広まりによって、耳障りのいい曲しか生き残りにくい面があったと思う。

 

大量に溢れた音楽は第一印象主義になってしまった。 

昔みたいに、一つのアルバム、曲に対して、向き合う時間が減ったのだ。

スルメを噛む事は随分減った。

 

そこは少し懸念すべきところだと思う。実際、自分にも思い当たる節があるからだ。

量と質が増したが、質を理解するのには時間を有する場合もある。

そう意味で、2020年代に入ってからの今、

2010年代の音楽は優れていたものが多かったと振り返れる(特にインディ)。

 

まぁ、2010年代よりかは1990年代の方がインパクトが強いが多かったし、

一番好きなのは、やっぱり60年代後期から70年代だけども。 

典型的なロック好きです。はい。

 

 

 

 

 

 

 

ブログ等、各サイト、各SNSによる人の棲み分け

 

ブログを更新し出してまだ日が浅いですが、

はてなブロガー?の姿というのが少しずつ見えてきました。

(なんか上から目線ですみません)

 

 

話がズレますが、

 

まずSNS、各ブログなどのサイトには、大まかな棲み分けが存在しているように感じます。

 

言ってしまえば、各SNS、各サイトを利用する人の反映という言葉が近いです。

 

どのSNS、どのサイトとかがどうとは書きませんが、こんなに違うもんなんだな~とはっきりと分かりますよね(その内書くけど)。

 

学校のクラスの中での立ち位置的なやつです。

 (そういうサイト群の中でも、YouTubeには老若男女、全層がいる感じがします)

 

 

そういう印象を各ウェブサービスに対して思う中、

はてなブログに対して感じる事は、

はてなブロガーさんには賢い人が多いな~という印象です。

 

まだそんなに熟知をしていないのですが、トップページなどを見る限り、そう感じるのです。

 

なんででしょうか?

 

 

ブログを書く、読む人に中には大人が多いと思いますし(変な言い方だけども)、

文章を書くってのは誰でもできるのに、誰もができる訳ではないですよね。

不思議なもんで。

 

 

前にどんな人がブログを書き、読むのかが、不透明であるというブログを書きましたが、若干その疑問の霧が晴れております。

 

そんな気がするのです。

 

 

まぁ、内容のないブログですねぇ~~

 

 

 

 

 

未来でガラパゴス人間になりそう。~世の中覚える事が多すぎる~

         現代に満足していますか?

 

と聞かれたら、なんと答えるでしょうか?

 

 

世の中、便利になっておりますが、ややこしい事が多いですよね。

 

例えば、電子決済サービス、携帯の料金プラン、似たようなアプリの乱立、次から次へと出る新商品、新サービス。

 

オプション、オプション、オプションの嵐。

 

現代は大変便利になったが、複雑化していて、便利なんだけども...という印象がある。ラビリンスです。 

 

 

漫画アプリにしても、

アプリは各出版社ごとに1つ、2つでもいいような気がしますか、同じ会社から数個出したり、違う出版社とも統合されて出されたりしていて、かなりややこしいです(漫画で例え出したで、おい!)。

 

そして、サービス内容がちょっとづつ違ったりしますからね。

まぁそれでシナジーが生まれたり、競合他社と切磋琢磨するからいいかもしれませんが。

 

携帯大手キャリアに対しても、

ahomoやpovoなんて、新しい言葉作らんといてくれ!!と若干思ったりしています。既成のサービスの値下げでええやん!と。

 

 

人が生きる上では、

一般教養は勿論の事、他にも様々な知識を理解し、頭に入れておくべきでありますから、容量が少ない僕の脳みそなんてもう既にパンクしています。

 

ですが、これからの未来でも新しい技術がどんどん開発される訳ですから、ちゃんとフォローしていかないと、ガラパゴス人間になってしまいますよね。

 

てか、まぁ自分はなるだろうなとの自覚がありますが。

もうパンクしてますから。

 

 

昔は、年配の方から生きる知恵、仕事の知恵、生活の知恵を学ぶ、

縦社会でしたが、これからの未来では、わからない事があったら

若者からもちゃんと学ぶ事をしないと何かと遅れてしまいますよね。

 

年取って、プライドだけ高くてもいい事なんてない気がします。

 

これからは柳のような柔軟性が必要なんだと思います。

そして、常に学びと挑戦をしないといけませんよね。

 

何事も簡単に学びやすくなったのはかなりいい面だとは思いますけど。

 

ふぅ

 

...

 

 

...... 新しい事を覚えるのは無理だ。

 

的な事を書きましたが、なぜかゲームはしているんですよね。

 

 

新しい技、覚えてます。

 

なんなんだろうんね。この矛盾の姿勢は。

 

って自分でも思っています。 

 

 

...はぁ~

 

なんかすみません。

 

 

 

 

 

 

無趣味~情熱はどこへいった?

             趣味はなんですか?

 

と聞かれたら、なんと答えるでしょうか?。

 

誰もが生きている中で何度も聞かれた質問だと思う。

 

 

しかし、その普遍的な質問の割には、世の中に無趣味の人は結構いるのだ。

 

僕の身の回りの人でも、趣味を持っている人より、無趣味の人の方が多い。

 

その人達の意見で、好きな事はあるけど、趣味というほどでもない、仕事の一環みたいで趣味という感覚ではない。と謙遜を交えた言い方をする人も多い。

 

 確かに趣味である!と言える線引きの難しさはあると思う。

 だって、明らかに自分より没頭している人がいるからだ。

 

 

世の中には多種多様なもので溢れている。様々なエンタメがある。

なのに、どうして自分は無趣味なのだろうか?と悩む人もいるのだ。

 

何かにハマれないのはなぜ?

自分でも理解できない自分がいる。

 だが、それは特殊ではなくて、割と普通の事だと思うのだ。

 

 

と、そんな事を書いておいてなんですが、

自分は割と多趣味気味な人間であります。

 

気味だと書いたのは、先程書いた通り、何かに熱中するオタクさんほどではないので、微妙なラインなのだが一般的よりかはちょっと、という感じです。

 

だが!(展開が多いのぉ~)

 

 

年齢からの問題なのか、内側から湧き上がる情熱が少しづつ小さくなっているのが自分でもわかるのです。

(何かにハマる回数、夢中になる時間が明らかに減っている!!!)

 

大人になると漫画を読まなくなると言われていた10代の頃、

嘘だ~!と思っていましたが、言われた通りに漫画を読む回数は目に見えて減りました。

 

だから、次第に無趣味の人の気持ちもよくわかるようになってきているのです。

 

最近、新しい何かにハマった記憶がない。常にどこか俯瞰的な視点になっています。

 

 

・映画に対する興味の減退 ↓

 

「趣味?」

 

「まぁ、映画観賞かな?」

 

と10人いたら4人は言うセリフ。

 

 

僕も映画観賞は趣味の一つでもあります。

 

だけど、去年観た映画本数は20本程度です。

趣味に映画好きを上げるには、ガチな映画ファンから嫌われそうな本数です。

 

しかし、弁解致しますと、

年間最高映画観賞数は約650本で、その年以外にも年間500本以上の映画を数年間通して観るほどの映画好きでした(勿論、上には上がいますし、本数が正義ではないとわかっています)。

 

ストリーミングサービスが一般化する前では、中規模のTSUTAYAのレンタルコーナーの棚(洋画)はほぼ観た事あるぞ!状態でした(すみません、アクション映画、ホラー映画抜きです)。

 

なのに、去年は20本程度です。

 

何が起きたのか?

 

例えば、あなたの大好物がナポリタンだとする。

 

しかし、何年も毎日二食、朝昼ナポリタンを食べてたら、飽きますよね(晩抜きにしても)。

 

そうすると臨界点を超えるです。

多分、自分はそれに陥ったのです。

 

そのようにして、映画への情熱は小さくなったのです。

 

これは割と悲しいのです。

 

近年、世間的に有名になった映画を観たとしても、

今よりも若い頃、名作と呼ばれる映画をラッシュ観していた時に得た感動を超える映画に出逢う事がなかなかないのです。

(去年大ブームになった鬼滅の刃、確かに物語にスピード感があって、面白さも理解できますが、内容はこれまでに色んな漫画、アニメで何度も見てきたような話であり、最初からマンネリ感を感じていました)。

 

 人生100年時代?

 

だとしたら、情熱を失うには早すぎるかもしれません。

 

何かに情熱を注ぎたい、没頭したい。あの頃の気持ちを取り戻したい!という淡い期待はあります。

 

だから、今まで手を出したことのないジャンルでもいい、体験的に何かをやってみようではないか!と若干息巻いております。

 

情熱の火は完全には取り戻せないかもしれませんが、

 若さを失っていくだけでは嫌なんです。ちゃんと何かを得ていきたい,

そんな気持ちがあるのです。

 

 

まぁ、凄い向上心がある訳ではないのですが、

心の火に薪をくべたいのです。

 

晩飯はナポリタンにしようかな?

そうだ公園、行こう

         公園は好きですか?

 

と聞けば、「嫌い」と答える人が少ないのは分かります。

 

そもそもとして、公園に対して嫌いとか好きとかそんな感情ないし、考えた事もない人が多いだろう。

 

しかし、僕は公園が好きなのである。

 

わざわざ公園が好きなのである(大事な事は二回言う)

 

だが、全てのあらゆる公園が好きな訳ではなく、いっちょ前に条件がある。

 

誰がこのブログを読んで下さるのかはわからないが、

偏屈に満ちた公園ラバーの話を読んで頂きたい。

 

 

良い公園の条件、それらを列挙していく。

 

まず、

 

①広さ

 

まず公園は広ければ、広いだけいい。

環境保全地域までとはいかないが、

都市計画としての公園は、広ければ広いだけいいのだ。

一周歩いて回って、ほど良い疲労感がある面積からが、広さとしては好ましい。

 

②公園内に起伏がある

 

正直これはかなり重要である。

平坦な公園は正直物足りない事が多い。ヨーロッパは公園の文化がしっかりしているが、地理的に平坦な公園が多く、ワクワク感がないのだ。

足腰には優しいかもしれないが、ちゃんと起伏がある公園の方が面白い。程よく心拍数上がるし。

 

③緑の量は多ければ、多いほどいい

 

これはもちろんの事だ。確かに木々が多いと管理コストなどがかかるが、多種多様の緑が生い茂っていた方が、断然リラックスができる。

公園全体が豊になる。これはマストである。

何を植えるのか、それにはセンスが出る。

 

④遊具、ベンチ、トイレ、文化などをちゃんと取り入れている。

 

これもかなり大事な要素である(さっきから大事、大事ばっかですみません)。

公園を彩るのは、それらのおかげである。

ベンチなどは寄付から設置するという欧米の制度がもっと普及してもいいのでは?と思う節もある。

公園のトイレはその街、その地域のある種の治安の指標にもなっていそうである。

 

⑤駐車場

 

車で公園に行くと、まずわかる。 

駐車場のデザインがいい所は、大抵公園内のデザインもいい。

割と比例するものだ。

 

 

以上、パッと思いつくのは、大体こんなもんだと思う。

公園の起伏は個人的にはとても重要なのだが、地理的に無理な公園も沢山あるし、必要性については個人差があると思うからあしからず。

 

 

・公園の良さ 

 

このご時世、自宅に籠る人が増えている。

どこかに出掛けたいけど、人が多い場所に行くのは億劫な気分になる人も多いだろう。

 

そういう時にこそ!公園である。

 

公園を歩けばいい運動にもなるし、季節を感じさせてくれるものが沢山あって面白いのだ。

 

公園には何もないと思う人も結構多いのかもしれないが、目線を下げてみると、色んなものが見えてくる。

 

それらは、この慌ただしいご時世の中で忘れていたものかもしれない。むふっ。

 

 

太陽の日差しを和らげる木漏れ日の中を歩くと、温く乾いた風があなたの頬をかすめる。

 

 靴の裏では土を感じ、すれ違う人には物語を感じる。

 

誰もいない、少し古ぼけたベンチに座って、近くのパン屋さんで買ったパンを頬張る。

 

場所を変えると、味わいも不思議と変わるのだ。

 

しばらくすると、姿の見えない鳥の声が耳に入ってきて、

あなたは辺りを見回し、抽象画のような木々の隙間から、

ふと、なめらかな空を眺める。

 

それって幸せな事だと思いませんか?

 

 

むふっ。

ねぇ、リッツパーティしない?

         リッツパーティした事ありますか?

 

そう、あれです。CMのあれです。

 

多分、ほとんどの人がしたことがないと思います(悪意ないです)。

 

 

なぜそんな事を思ったのか、

僕はスーパーのお菓子コーナー、下から二段目のあったリッツを見て、ふと思ったのです。

 

 

このお菓子は豊かさの象徴である。と。

 

 

リッツを普段買いする人の中でも、食べる時はコーヒーのお供などで、そのまま食べる人も多いでしょう。

 

だけど、個人的感想ですが、リッツをそのまま食べると、ちょっと脂が気になるし、強い塩分を感じてしまいます。

 

そう考えると、リッツは上に何かを載せて、完成なのです。

それが売りなのです。

 

つまり、手間がかかるお菓子なのです

 

このご時世、人は手間を省く事に躍起になっています。

どれだけ時間短縮できるのか、どれだけお手軽なのかが、商品のとしての価値を上げる時代なのです。

 

なのに、リッツはそんな時代を、「気にしてないわ。フンッ!」

と言わんばかりです。

ねるねるねるねみたいな自己完結型ではないのです。

 

あの直径数センチのクラッカーに、用意した食材をバランスよく乗せて食べる。ある意味、曲芸です。

 

そんな事ができる人は優雅な人間なのです。選ばれた人間なのです。

リッツは豊かなお菓子なのです。

 

別途で、食材を用意するのです。

 

そして、一枚だけでは物足りないので、勿論何枚か作りますし、

味替えの為、違った食材を乗せる人もいると思います。

 

 

 

スーパーでリッツを見つけた僕は、リッツを買い物カゴの中に入れ、レジに向かいました。

これからリッツパーティをするなんて店員さんは一ミリも思ってはいないでしょう。

 

 

なぜ僕がパーティをするのかと言えば、

冷蔵庫に海外産のクリームチーズの残りがあったのです。

そのサイズはでかく、尚且つ賞味期限が足早に迫っております。

(タッタッタッタッタ)

 

それで1人でパーティをしたいと思ったのです。

 

他にエントリーはなく、乗せるのはそのクリームチーズだけです。

気が利く食材が冷蔵庫の中にはないのです。

 

 

曇り空、CMで観た優雅さとは程遠いシチュエーション、

僕は1人でリッツパーティを開催します。

 

 これで豊かさを手に入れるのです。

 

はじまりの合図はもちろん。

 

ねぇ、リッツパーティしない?です。

 

 

 

 返事はありません。