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和菓子や民芸品などの未来。文化、伝統はこれから失っていくのか?

              和菓子好きですか?

              民芸品好きですか?

 

と聞かれたら、なんと答えるでしょうか?

 

多分、好きと答える人はそんなにいない印象があります。

まぁ嫌いでもない。という答えが一番多いと思います。

 

 

僕はどちらも好きです。

 

地元の和菓子屋さんの和菓子も買いますし(けど、有名企業のお菓子の方が購入率は高い)、作家さんの器などをちまちま集めたりしています。

 

大量生産ではない、手作りの魅力が好きなんです。その分高いですが...。

  

ところで、

 

和菓子や民芸品の文化がこれからも続くか?と考えると、やや難しい気がするのです。

 

完全に無くなる事はないとは思いますが、新聞や雑誌のような縮小の未来が来る気配がしているのです。

 

未来の有事に備え、和菓子屋さんでは若者向けの新商品を開発したり、民芸は地域振興の為の催し物をしたりしていますが、やっぱりどこかパワー不足のような気がします。

 

なぜか?

 

僕はアラサーなのですが、同年代の友人に和菓子好きや民芸品好きの人がいた記憶がないのです(母数が少ないけど)。

 

彼ら彼女らも、嫌いではないと思いますが、そもそも関心がある人が少ないのです。

他に魅力的なゲームやエンタメがそこら中にありますから(まぁ、時代の流れですね)。

だから、僕が民藝店に訪れたとしても、同年代の人の数は本当にちらほらです。

 

 

そういった日本文化に関わるものをどうやって守っていくべきかと、たまに考えますが、そもそもニーズがないと難しいですよね。

 

国内消費では難しいから、成功した一つ事例?、日本酒を海外向け、高級品仕様としたブランディング戦略を見習う必要もあるのかもしれません。

 

 

 ・文化・伝統とグローバル化

 

 

ところで、日本には古くからの伝統、文化が沢山ありますよね。

 

 

 いや、もういらないぜ!!と世間から評判の悪い伝統・文化がまだありますが、

これから何を守って、何を省いていくのかは真剣に選ぶべきだよなとは思うのです。

 

なぜなら、積み上げて来たものを壊すのは簡単だからです。

 

解剖学者の養老孟子先生の言葉ですが、グローバル化とは、均一化であるとおっしゃっていました。

世界中、どこでも同じ味でマクドナルドが食べれて、スタバが飲め、iPhoneが使える。垣根を失くす事がグローバル化だと。

 

近年、反グローバル化の流れが目立ちましたが(英のEUからの独立など)、まだグローバル化の波は続いており、勿論、日本もグローバル化に向かっています。

 

そうなると、文化や伝統を簡単に失う可能性があると思うです。

海外では○○だから。論が増えるのです。

 

それは悪くない事でもありますが、バランス感覚が大切ですよね。

(自分もこれいらないよな、と思う日本の習慣はいくつもある)

 

なんかダサい、古臭い、寒いなどの色んな理由で、日本中から昔ながらの日本家屋が姿を消していくような事が若干寂しい派です(神社仏閣は残るからまぁいいけども)。

 

だから、文化継承、職人さん保護をもうちょっとしてもいいのかな?なんて思ったりしています(ちゃんと調べてないのでわかんないですけど。すみません)。

なんかフランスとかは手厚いみたいですよね。

 

 

 この先、人工ピラミッド的に10年、20年で色んな変動が起きるのは確かであり、

時代に合わせた柔軟な変化が必要だと思いますが、文化・伝統を守る意識をしておく事が大切なんだと感じます。

 

まぁ実情はそんなに簡単ではないだろうけどね。へむ。

 

漫画・アニメではなく、アート・絵画の魅力とは何か?受動と能動。

              絵画はお好きですか?

 

と聞かれたら、なんと答えるでしょうか?

 

正直、美術、絵画好き人はそんなにいないと思うのです。

クラスにいたしても1人、2人程度だと思います。

 

しかし、アニメ、漫画好きはその何倍、何十倍もいるでしょう。

 

 

なぜなのでしょうか?

 

 

まず、理由としても思いつくのは、アニメや漫画は分かりやすいです。

 

ちゃんとした物語が明確で、起承転結があり、アニメなら声があり、動きがあるのです。人の感情に訴えやすい為、没頭しやすいのです。

 

そして、子供でも真似して描けるキャラクターの親和性ではないでしょうか。

幼少期から慣れ浸しむ、これはでかいです。

 

 

一方、美術作品の絵画は単なる一枚絵です。

 

絵画の中にいくら情報を描き込んだとしても、漫画やアニメに比べると、

圧倒的に情報量が少なく、観る側の知識や洞察力、感受性が必要になってくるのです。

 

学術的な説明はありますが、物語の前後は描かれていません。

 

それに、子供にとっても、やけにリアルだったり、やけに抽象的だったりすると、

模写する気はなかなか起きません。

 

 

そう考えると、絵画より、アニメ・漫画の方が魅力的!

と思うのは当然のように思えます。

 

 

だけど、僕は絵画が好きなんです(アニメや漫画も好きですが)。

 

 

・どうしてか絵画が好きか?

 

 

まず人間が見えるからです。

 

漫画、アニメはファンタジーの世界ですが、

絵画の場合だと、同じ空想を描いたとしても、現実の地続きがあるように感じるのです。

 

イキった言い方をすれば、生命、血の臭いを感じるのです。

 

絵画には、長い歴史、時代背景があり、

作品には作者の人間性が筆致に現れ、色彩に感情が現れ、細部に執着が現れるのです。

 

そこが面白いのです。

 

また、どんな想像力でこの作品を描いたのだろうか?と考えると面白いのです。

 

 

 漫画・アニメと美術館などに展示されるアート・絵画の違いを、

雑にまとめてしまえば、 アニメ・漫画は能動作品で、アート・絵画は受動作品です。

 

 

アニメや漫画は、懇切丁寧に見ている側(受動)に作品の魅力などを教えてくれますが、絵画は観ている側が能動になって、魅力を感じていく、という楽しみ方の構造の違いもあると思うのです。

 

 

現代アートに関して

 

 

現代アートでは、何でもアートと名付ければいいんか!

 

と思う作品もありますが、

 

実際に見たら、なかなか面白いのです。実際、好きな作品は沢山あります。

 

以前までの価値観、常識を覆したり、破いたりして、

新しい物を生み出すために色々試行錯誤するアートの姿勢には刺激を貰えます。

 

 

アートは人類の挑戦なのです。

 

そのメンタリティは、違う分野でもとても大切な姿勢だと思います。

 

 まぁ、漫画やアニメもアートなのですがね。

(その線引きは、日本でおける、純文学とエンタメ小説の違いのようなものだと思いますが)

迫り来る人生の選択。身体的ピークは最初の四分の一で終わることについて

         

 

今の80歳と昔の80歳を比べると、今の80歳の方が若く見えると思う。

 

昔から放映されているアニメのキャラクターの設定年齢は意外に若いが、

今の感覚で見れば、適正な年齢には見えにくく、貫禄があるように見えるのだ。

 

これからの未来、見た目に関して言えば、80歳でも若い見た目を保つ人は増えると思う。実際、今の50、60代でも綺麗な女性は多い。

しかし、見た目が若いからと言って、人間の細胞は着実に老化していく。

 

画期的な内側からの若返りの薬が一般化すれば話は変わるが、実用化はまだ先の話だと思う(噂によれば、もうあるにはあるみたいだが)。

 

 

年齢の話と言えば、女性では妊娠、出産があるだろう。

いくら見た目が若々しくても、出産に関しては適齢期があるのは事実である。

勿論、男性の精子の質も、年齢が上がるほど低下していくという事実もある。

 

 けど、日本では晩婚化が進んでいる。

テレビやネットの中の有名人には独身の人が多い。

特にちょっと前までの男性アイドルの未婚率は高かった。

 

多分、そんな影響もちょっとはあると思う。

そして、金銭問題も勿論あると思うが、価値観での影響も大きいはずである。

 

未婚率の上昇、このご時世は独身も多いのだが、

歳を取った時には、結婚に拘らなくともパートナーはいた方がいいとは思う。

 

今の日本では約六人に一人が独居老人という記事を見た。

色んな諸事情があるにせよ(独居と言えど、その過程までに色んな形がある)、

なかなかの数字である。

 勿論、独居でも毎日楽しく生活されている方も多いだろうけど。

 

いつまでも見た目が若い、気分が若いからといって、今ベターな選択を逃す事は

あり得るのだ。 

そんな選択の選び損は、自分もした事がある。

 

ところで、僕はアラサーである。

 

25歳辺りから、身体の変化が起こると言われていて、なんとなく覚悟はしていたが、

確かに年齢がその辺りになると、体力面とか、肌の艶などが変わった実感があった。

それを目の当たりにした時、ショックを受けた。

 

人生100年時代?

なのに身体的なピークは四分の一で過ぎ、あとはなだらかに下がっていく事に

一種の絶望を感じたのだ。

 

40代で老眼になる人もいる。まだ人生の半分もいっていない。

 

読書が好きな僕としては、これもまた嫌な気分にさせられそうである。

老眼という名前を変えて欲しいぐらいだ。

 

まぁとにかく、人生は身体的なピークを過ぎてからの方が長いのだ。

だからこそ、そこから楽しめる何かを増やすべきだと思っている。

 死に向かって、身体の衰えを目の当たりにしていくのは、楽しくはないからだ。 

このブログでも、なるべく面白い話を書こうとは思っている。

どうせ読むなら、そっちの方がいいからだ。

 

いい音楽、いい絵画、いい本、いい映画などに触れ、

素敵な景色に出会い、美味しい食べ物を食べて、

仲良く人と過ごす。勿論ゲームもする。

 

人生には楽しみが多い方がいいのだ。

 

人生の節目が若干ぼやけている現代でも、迫り来る選択があり、割と真剣に向き合う必要もあると思うのである。 

 自分本位も大切だが、生物として身体にはリミットがあるのだ。

 

 まぁ、のんびり、気楽に生きたいものですけどね。へむ。

実質値上げとエンタメの格安化

            女性にも持ちやすいサイズ!

              飲み切りサイズ!

              注ぎやすくなった!

 

など、近年、味以外に関する商品の謳い文句が随分と増えた。

 

そんな耳障りのいい言葉の裏には、実質値上げがあり、

 

そんな事を言わなくても、大抵の消費者にはバレているだろうと思う心と、

まぁ、何とかプラス思考の事を言ってくれるだけ、親切だろうと思う心がある。

 

 

今でも覚えているのが、2008、2009年辺りに、コンビニのパンが小さくなったと、当時学校のクラスで話題になったのを覚えている。 

リーマンショックの影響なのか、中国の台頭の影響なのかは知らないが、

確実にサイズが小さくなり、 

あれ??だったのである。

 

だが、パンやお菓子のグラム数が減ったとしても、身体にはいい事だから、まぁいっかと思っていたし、今でも思っている節がある。

 

けど、これからも実質値上げ、容量の減少はあるにせよ、

その逆のパターンはなかなかないと思うと、どこか日本の時代の流れに儚さも感じる。

 

その内、一口サイズを謳う商品がもっと増えるかもしれない。

 

誰もが大人になると「あの頃はよかった」と、口をそろえて過ぎた日々を思い出補正する事があるが、

 

実質値上げに関しては、多くの人にとって、あの頃の方が良かった。だと思う(パンやお菓子以外にも実質値上げがあるから)。

 

今更だけど、ガソリンも高くなりしまたね。本当に。

車の燃費自体もかなり良くなったと思いますが、それでもプラマイゼロなのだろうか?

 

しかし、生活に直撃するものも増えた一方で、エンタメ面に関しては、かなり良くなったと思う。

無料で楽しめるものが山ほど増えたし、今なら月額課金で、昔なら夢のような事ができるようになった。

 

昔はCDアルバムが3000円もしたのだ。

今考えると、普通に高いと思う。

 

まぁ、音楽業界などにもCDが売れなくなったしわ寄せは来ているのだろうけど、

利用者としてはありがたい。

 

一般的には娯楽費に使用していたお金が食費などに回されているのだろうか?

 

現代はデジタルに溶けたものは安くなり、デジタルに溶けないものは値上がりをする。

そんな時代ですね。

 

 

 

 

 

街の開発~場所、風景が呼び起こす記憶がなくなる虚しさ~

             記憶力は良い方でしょうか?

 

と聞かれたら、なんと答えるでしょうか?

 

僕はまぁ平均的だと自分では思っていますが、昔の事を忘れてしまっています

(当たり前か)。

 

よくある記憶の定着方法として、何かを覚える時、場所と一緒に紐づけて覚えるという方法がありますよね。

公園ではあれ、駅前ではあれとか、そんな感じのやつ。

 

そんなノリで、ふと、ある場所やある風景を実際に目の当たりにすると、脳が勝手に紐づけた記憶が蘇る事があるのです。

あぁ、ここではあんな出来事があったな~と。

 

しかし、僕が住む街では、割と前からですが、街の開発が行われてきました。

大規模なものではないですが、地味にちょくちょく変わっていっているのです。

 

昔の通学路に新道路が作られ変わり、訪れていたお店が潰れ、跡地にマンションが建設されたり。

それは住みやすくなる為の良い事のなのですが、

時に、昔はどんなんだったっけ?とそんなに古くない自分の記憶さえ思い出せない時があるのです。

そりゃ、あんたの記憶力問題じゃ!と言われたらそうなのですが、

所々が変わっていて、なかなか細部までが思い出せないのです。

 

 人の記憶はなくなる事はない、思い出せないだけで。

的なジブリ映画の名言がありますが、正にその状態なのです。

 

街の開発によって、僕の中で多分思い出せない記憶が増えていく。

そして、街は成長し、僕は歳を取っていく。そうなると、どんどん記憶が遠のいていく。

 

そんな虚しさを、なくなった風景の前で感じる時があるのです。

 

これからは、ここには昔、○○があったんだよ。というセリフが増えていくのです。

そう考えると、毎日を大切に生きようと思うんですよね。

 

ちゃんちゃん。

 

 

 

PS. そんなに悲しんでいる訳ではないけども。

ブログを書くのには才能がいるのか? 才能の見つけ方?

                                   ブログを書くには、才能が必要なのか?

 

 

誰にでも文章は書けると思う。そう考えると、ブログへの参入障壁はかなり低いように感じる。

だけど、いざ書こうとパソコンを前にすると手が止まる。

なんでも書けるっていうのは、自由であるが、自由で広大な大地を目の前にすると、どこに向かって歩き出せばいいのかがわからなくなる。

多分、誰かが前に舗装した道でもあれば、最初はそこから進むんだろうけども、

そうなると二番煎じどころではなくなる(それでもいいけど)。

 

次に、辺りを見渡せば、多種多様なものが目につく。

だが、それらについて何かを書こうと思っても、特に深い思い入れもないし、なんなら興味もないものが多いのだ。

 

そうなると、自分は普段何を考えて生きているのだろう?と自問自答をしてしまう。

何かにつけての意見はあるが、意思表明まではいかない感じである。

 

ブログを書くぐらいでそんなに切羽詰まらなくても、もっと気楽にしなよ。と言われたらそうなのだが、ブログを書く上である種の継続をしないと、多分ずっと放置する羽目になる(実際、以前放置した)。 

やっとの思いでなんとか書き出し、なんとか書き終えたとしても、その出来はイマイチのように感じる。

そうなると、 文章は誰でも書けるが、ブログを書くには才能の有り無しは大きいと実感をする。

 

どうして文才がある人は、あのような文章が書けるのかが不思議である。

使っている道具は同じである。脳と手とパソコンである(スマホからの人もいるだろうけど)。

何がどう違うのかさえ、わからないのだ。

わからない事がわからないのである。

 

似たような話で、

字が上手い人を見ると同様に、どうして上手いのだろう?とも思う。

子供の頃から同じ練習をしたはずである。

字には美しいとされる正解があるから、みんな同じ正解を目指したはずである。

 

勿論、練習量の違いもあると思うが、こんなに人によって違うものだろうか?と不思議である。

脳のシナプスの伝達が悪いのかもしれないし、手の微妙なクセの問題かもしれない。

数ミリ顔のパーツが変わるだけで、顔の印象が変わるように、小さなズレが文字でも大きくなって現れる。

 

人間という生き物はマクロで見れば、そんなに変わりはないが、ミクロで見れば随分と個体差がある。 そんな感じある。

 

ブログを書くには才能がいるのか? 

まぁなくても特段困ることはないと思うけど、豊かな文章を書くにはやっぱり才能がいるし、

才能があったとしても、書く題材について何にも興味が無ければ、その才能を上手く活かす事ができない。

 

そして何より、継続できるかがかなり重要である。 

ブログを書くのにも、複合的な才能が必要なのですよね。

 

・才能の見つけ方。

 

何かの才能有無は見た目ではわからないものが多い。

秘めている才能は、100m走の選手の体を見て、明らかに走るのが速そうだなと感じるのとは訳が違う。 

そして、見えない才能を探すのは、ドラクエの宝箱みたいにとりあえず何が入っているかわからないけど、いちいち開けて確かめる事が大切なんだと思う。

何もないかな?と思っても、箱を開ける事が重要である。

 

スポーツの中で、あなたはホッケーが異常に上手いかもしれない。

けど、ホッケーがやる機会がなかったから、気づかないだけかもしれない。

僕の友人でスポーツは平均的なものだったが、水泳で全国大会出場した友人がいるし、運動音痴だが長距離だけは異常に速い友人もいた。

引退した野球選手のイチローがバスケットボールが全然できない動画を観た事がある。

そう考えると、人には適材適所があるのだと思う(そりゃ万能の人もいるけどさ)。

開ける機会がない宝箱を、自分から開けに行くのはかなり重要である。

何事もやってみなきゃわからない。

 

僕は、

 

カチャ!

 

パカ!!

  

 ・・・・・・。

 

の連続であるけども。

 

まぁ開けてはいる。地味に。それでもいいけども。

2010年代の音楽シーンは豊富だったよね。

      あの頃はよかった、昔の方がよかった。

 

と人は言いがちである。自分が過ごした青春時代などを良かったものだと思いたいのだ。

 

僕の青春時代は2000年代の方に多く浸かっていたが、2010年代の音楽シーンは2000年代の音楽シーンより、面白かったと思う(勿論、それは個人の感想であり、何を基準にして良いか悪いかを決めるのかは微妙なのだが)。

 

まぁ、 なぜ2010年代の音楽が面白かったかと言えば、参入障壁の低さだと思う。

 

つまり、誰でも音楽を作り、誰でもネットにアップできるようになったからだ。

 

そして、時代のスピード感のおかげで、色んなジャンルが10年間の間に勃興した。

 

僕は基本的にはロック好きなので、海外のロックシーンの低迷、その面は寂しかったのだが、それ以外でも面白い音楽がわんさか出てきた(特にヒップホップは後世に名を残すであろう名盤がいくつも生まれた)。

 

一方、日本の邦楽シーンも面白かった。

特に2010年代中盤から起こった、シティポップリバイバルは特に印象に残った。

今では少し勢いが落ち着いたのだが(70、80’sのは除く)、

若者たち(僕と同世代)が鳴らす音楽に正直驚きました。

 

しかし、一方で、ストリーミングサービスの広まりによって、耳障りのいい曲しか生き残りにくい面があったと思う。

 

大量に溢れた音楽は第一印象主義になってしまった。 

昔みたいに、一つのアルバム、曲に対して、向き合う時間が減ったのだ。

スルメを噛む事は随分減った。

 

そこは少し懸念すべきところだと思う。実際、自分にも思い当たる節があるからだ。

量と質が増したが、質を理解するのには時間を有する場合もある。

そう意味で、2020年代に入ってからの今、

2010年代の音楽は優れていたものが多かったと振り返れる(特にインディ)。

 

まぁ、2010年代よりかは1990年代の方がインパクトが強いが多かったし、

一番好きなのは、やっぱり60年代後期から70年代だけども。 

典型的なロック好きです。はい。