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UKロックとUSロック。ジャケットによるセンス違い。

        USロックとUKロック、どちらが好きですか?

 

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と聞かれたら、なんと答えるでしょうか?    

 

 

ロックに関して、日本人はUSロックより、UKロックの方が好きだと言われている。

 

同じ島国だから感じるシンパシー、鬱々であり内省的な歌詞やメロディに共鳴するのか、ただ単に好きなのか(多分これ)、色んな理由があると思う。

 

僕も例に漏れず、USよりかはUKが好きです。

 

 

ビートルズストーンズツェッペリン、オアシス、ローゼズ、ピンクフロイドなど、好きなバンドはたくさんいます(もう十年以上、UKロックは前ほど元気はないけど)。

 

 

しかし!

 

ここで書きたいことは、USとUKのアルバムジャケットのセンスの違いによる印象です。

 

まず独断の前提として、ジャケットがいいアルバムは中身も大抵いい!!

 

ってのが、なんとなく印象としてあります。

 

勿論、全部がそうではなく、傾向としてジャケットと中身は比例している気がします。

 

○○誌が選ぶ名盤ランキング!!の上位作品のジャケットは大抵優れています。

 

はい。

 

USとUK、ジャケットのセンスを比べると、いいのは断然UKです。

 (個人の感想ですが)

 

なぜなのか?

 

 

まず60’S、70’s前半までに関して言えば、両方とも優れたジャケットものが多いです。

 

しかし、アメリカ、イギリスは次第に自国の経済を反映するかのようなアートワークに移っていきます。

 

アメリカは70’S後半以降も経済は上り調子で、それを反映するかのようにジャケットも商業的にギラギラとした明るいもの、デザインもどこか原色が強かったり、コミックの影響だったり、どこか散漫しているものが多くなっていきます。

 

一方、イギリスは経済停滞の不安からどんどん暗く憂鬱な色使いなどのジャケットが増えていきます。

けど、ジャケットに一貫性があるんです。

もともとヨーロッパでデザインの文化が開花した訳ですから、イギリスの方がデザインへの愛着が強いのかもしれません(ヒプノシスなど)。

 

 

そして、音楽に関しても、アメリカはスタジアムロック、ホップ路線に走り、

イギリスはマイナーコードから始まるビートルズ基準のロック牧歌のような音楽が多い印象です。

 

経済とアートへの姿勢、ここで大きな差が出てきた気がします。

 

 

とは言え、アメリカは国土も広く、人口もイギリスの何倍もいます。

なのでアメリカ括りは不公平かもしれません。

 

アメリカの州で見ていくと、

1989年頃からシアトル中心で巻き起こったグランジ

僕はグランジバンドのジャケットがどれもあんまり好きではないんです。

 

サウンドはUKロックのような暗さと重たいサウンドですが、ジャケットに美学をあまり感じないんですよね。

 

 

メタルもスラッシュメタル(主にロサンゼルス)以外はあんまり好きではないです。

 

メタルの源流とも言われているブラックサバスの初期のアルバムのジャケットセンスはどれも素晴らしいと思います。イギリスですが。

 

 

ヒップホップに関してもあんまりですね...。

主張の文化ですから、まぁ。最近のはかっこいいものが多いですけど。

 

 

しかし!!アメリカのアートの中心地、ニューヨークから生まれた、

ニューヨークパンク、ロック系は優れたジャケットのものが多い印象です。 

なんか面白いですよね(完全に主観だけど)。

 

 

 

とにかく、ジャケットってかなり大事な要素だと思うんです。

 

 

一方、邦楽のジャケットセンスはどう思うかと言えば、これもまた微妙なものが多い気がします。

 

日本ではCDの普及で洋楽文化が気軽に家庭に流れ込み、それを咀嚼&解釈した90年代のものが優れている印象が強いです。

 

皆さんはどう思いますか?

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

掃除をして心を整える的なヤツ。

 

掃除をしていると、スッキリするのは部屋以外に、自分の心もスッキリしますよね。

 

掃除の本質はむしろそっちのような気がします。

 

禅問答のようなものですが(実際禅語にそんな言葉があると思うけど)。

 

 

部屋は心の写し鏡と言われることもありますが、当たっていると思いますか?

 

僕は当たっているようにも感じます。

 

部屋がごちゃごちゃしていると、意識を奪われることはありますから。

 

 

掃除のメリットしては、すぐに達成できる細かいタスクを次々にこなしていくことで、

自己肯定感とまではいかないにしろ、メンタルヘルス的にも効果がありそうですよね。

 

 

しかし、空き箱や紙袋ってなかなか捨てにくいよね。瓶とかも。

 

 

それと、掃除機の掃除って大切よね。

 

掃除日和の今日この頃。

 

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天気はお金では買えないよね。

         誰もが夏を100回楽しめるわけではない。

 

80歳で亡くなるとその人には夏が80回しか訪れなかったことになる。

(数え年、細かい計算なしで)

 

そう考えると、季節をより楽しもうとポジティブな気持ちにもなれる。

 

1年は52週、又は53週である。

 

そう考えると短い気がする。

 

そして、

 

その1年の中で、雨などが降らず快適に過ごしやすい日数は案外少ないものだと思う

(地域にもよりますが)。

 

だから、天気がいい日を大切に過ごしたい気分になる。

 

もし、天気、天候を買えるならどうしますか?

 

 と聞かれたら、みんな過ごしやすい気温、湿度の日を結構買うのではないかと思う。

天気のサブスクです。

 

作物を育てたりするから雨の日も必要だ!冬に夏の気温をもってきて雪を解かす!とか、そこまでは考えなくてもいいです。環境問題などは一様無視です。 

 

僕の場合、まず週三日は晴れの日を買いたいです。

残りは自然の流れに任せます。

 

曇り日や雨の日が続くと、気分が鬱々としたものになりますから、晴れの日は最低三日は欲しいです。

 

 まぁ妄想の話ですけど。

ここで書きたいことは、天気はお金では買えないから、晴れの日を楽しもうという事です。

価値があるんですよね。普段は忘れがちだけども。

 

 

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純文学の魅力が少しづつ理解できてきた。海外文学賞も気になるところ。

    純文学はつまらない。とよく聞きますよね。

 

僕も全ての純文学が面白い!と思う訳ではないですが、

最近になって、色々と純文学を読み漁っていくうちに、徐々に面白さが分ってきました。

何度も飲むうちにアルコールの美味しさがわかってくるような感じです。

 

まず純文学を読む姿勢として、

起承転結を求めない。というのがあると思います。

 

現代人は起承転結に慣れ過ぎていて、小説には起承転結が付き物だと思っていますが、

純文学にははっきりとした起承転結があるものの方が少ない気がします。

 

アニメだと後期の宮崎駿監督映画、千と千尋以降のようなものが例えとして分かりやすいかもしれません(いや、どうかな?)。

前後関係、物語をはっきりと描かない姿勢です。

 

だから人によっては、は???の感想もあります。

 

では、起承転結を求めないとなると、何を求めるのか?

著者の描写筆力、語彙力、観察力などだと思います。

 

純文学は芸術性を求めますが、芸術とはその人自身の事だと思うんです。

文体にその人が現れるんだと思います。知らんけど。

 

・けど、長い純文学は読むのがだるい。海外文学賞が気になりはじめる。

起承転結がほとんどないと分かっていれば、長編の純文学を読むのは骨が折れます。

芥川賞作品ぐらいの薄さが丁度いい気がします。

 

しかし、海外での純文学的な立ち位置?のフランスの有名文学賞ゴンクール賞、イギリスのブッカー賞アメリカの全米図書賞などの文学作品が気になるところである。

起承転結やエンタメ性はどうなのか?

日本の純文学は特有のガラパゴス的なものなのか?

そこが気になります。

 

しかし問題があり、WiKiで見る限り、フランスのゴンクール賞を受賞した作品は翻訳の問題からか、日本語訳されている作品がかなり少ない。

なんかもったいなく感じる。まぁ需要がないんだろうけど。

一方、ブッカー賞はまずまず多い。しかし、タイトルを読む限り、

日本の純文学とは毛色の違いを感じます。サスペンスチックな感じ。

 

全米図書賞もブッカー賞と同じ翻訳数とタイトルから似たような雰囲気が漂っています。

なんか芥川賞より、直木賞みたいな雰囲気です。

 

これから近年の海外文学賞受賞作、翻訳されているものを読んで、感想をこのブログに書けたら書いていきたいと思います。

時間かかるなー。

 

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ブログの生存競争。これからブログが発展するには? SNSなどとの比較

     前に、ブログを読む人がどんな人なのか想像がつかない。

     というブログを書きました。

 

昔からブログを読む習慣がある人も沢山いると思いますし、

ネットサーフィン中、なんとなく行き着いた先でハマった人もいると思います。

 

その方たちにとっては、読むのは普通の事だから。という回答が出てきそうですが、

ブログを読むにしても、読み手に何らかの面白さがないと読む動機が生まれませんよね。

それにこのご時世、盛り上がりがないと新規参入が少なくなりますよね。

 

 

この先、ブログ文化が完全になくなる事はないと思いますが、母数は減っていくと思います。

色んなメディアが生まれてくる時代に、 これからブログがさらに発展していくには?

 

今あるいくつかの有名メディアとの比較から、素人が考えてみる。

 

 

・対Twitter

 

 まずTwitterとの比較である。Twitterはユーザが多く、圧倒的に情報量が多く、流れが速い。エンタメも豊富である。

Twitterにブログが対抗できるとしたら、文字数であるのは間違いないと思う。

 

ブログ側はTwitterのようにどんどんリアルタイム更新していくことで、ページビューを稼げ、私もやってみようと参入障壁を減らせる事ができる気もする。

 

ブログのある種の未来はTwitterの機能に近いところがあるかもしれないと思う。

ただ扱う記事にある種の偏りが多くなると困る気もする。

 

 

・インスタグラム

 

Twitterと同様、ブログはインスタグラムも模範できるはずだ。

 

インスタは今現在、数年前ほど盛り上がっていない。

そして、去年からの新機能、TikTokを真似たショートムービー機能のリールの評判はあまりよろしくない。ユーザー層との乖離が生じている気がする。

 

ブログは動画には手を出さず、写真とショートテキストでもOKな感じをもっと広め、

インスタのおしゃれ感のようなものをさらに醸し出すと、Twitterを模範した場合での問題、扱うテーマの偏りが少しは解消されると思う。

 

 

 ・対YouTube

 

かなりの強敵である。現代一番強いメディアであると思う。

 

動画にテキストの力で勝つのは無理ゲーである(文字を読むのが面倒な層もいるわけである)。

動画の幅は広く、ユーザーが動画投稿で当たれば収益も凄いから常に参入がある。

 

 

しかし、テキストにも負けない面白さはある。

 

その特徴はエッセイに現れていると思うのだ。

 

動画にはできない、エッセイのあのゆるい感がもっと普及したら、動画とは違う活路を見出せそうである。

 

 

 ・音声メディア

 

少し前に瞬間最大風速が吹いたが、今はすっかり落ち着いた音声メディア。

 

ラジオとはまた違い、案外、隙間時間にフィットする何かがないと思うし、

話題は内々なものばかり。

 

正直、話し手の声の質も気になる。ラジオの場合は言っても、プロなんですね。だからリスナーとしても心地良い。

 

音声メディアに対抗し、もしブログに読み上げ機能があったらどうだろうか?

将来的にはあり得る話だと思う。

 

 

・結論

 

段々ブログからかけ離れていったが、生存競争を勝ち抜くには変貌も必要である。

アプリの強化などは必須であると思う。

 

人間には自己表現の欲望がある。

 

そこの受け皿として、ブログの間口が広がれば普通に生存可能であると、素人は思う。

 

 

 

少年ジャンプが少年マガジンに発行部数で負ける日が来るのか?アニメ向きの漫画を量産すればあり得るかも?

 

*漫画にそこまで詳しくない素人の考えである。 

 

 

少年漫画雑誌と言えば、週刊少年ジャンプだと思う人は多いと思うし、知名度で言えば日本一だと思う。

 

しかし、右肩下がりの発行部数、最近のジャンプの連載作品を見る限り、昔に比べて勢いがなくなったかのようにも思える。

連載作品も2019,2020年の連載開始ものが半分以上を占めているから、そのように感じるのかもしれない。

 

少し煽ったタイトルにしたが、正直ジャンプがマガジンに抜かれることは、コアなファン数を考えるとなかなか難しいようにも思える。

 

2020年のデータを見るとまだ倍以上の開きがある。

四半期で見ると、 ジャンプは150万部あたりで、マガジンは50~55万部あたりだった。

(調べるともっと詳しく載ってます)

 

 

ジャンプは未だにワンピースが看板作品であるが休載が多く、ハンターハンターも長く休載しており、去年大ブームを起こした鬼滅の刃は終わってしまった。

他にも色々と人気作品が立て続けに終わったみたいだ。

だが、今は呪術廻戦が人気を博している。

 

今のジャンプは誰が見ても昔とは違う構造になっているのは間違いないと思う。

 

近年の時代の傾向により、長期連載より短いサイクルでヒットを飛ばす方が時代に合っているように思え、その戦法を取っているのではないかと考える。

 

 

ワンピースはあと5年以内に終わると、2019年に作者の尾田さんが公言していた。

だから、今からあと4年ぐらいだろうか?(休載が多いから)

 

となると、ワンピースが終わった後のジャンプを考えると、さらにマガジンとの差が縮むような気がしてくるのだ。

それはジャンプの部数が落ちる可能性という意味でだ。

 

とは言え、発行部数が落ちたのはジャンプだけではなく、どの雑誌も落ちている。

  

 

一方、少年マガジンの今の連載作品を見てみると、近年始まった作品がジャンプ同様に多いが、新人よりベテランの作品も多くあるように思え、そこに経験値の差が出てきそうでもあり、読み手としては安心感があるのではないかと思う。

 

 

 そもそも、今の子たちは実物の漫画に触れる機会は昔より少ないはずである。

 

本屋さんは減少し、コンビニでは立ち読み防止のために紐が巻かれ、漫画に触れる機会が減った。

習慣的にジャンプを買う層は、今の若者ではそんなに多くないはずだ。

 

その代わりに、スマホで漫画を読む層が増え、 漫画よりアニメの影響がかなり大きな時代になったと思う(動画の時代だから)。

 

漫画の絵が下手でも話が面白ければ、アニメーションで大きくカバーできる利点もある。

 

 入りがアニメからの人が増えている。

 

 そうなると出版社の垣根がシームレスになり、ジャンプというブランド力の強味が少し薄まる気がするのだ。

 

なので、昔でいうところの鋼の錬金術師みたいに発行部数が少ない雑誌からヒット作が生まれやすい状況なのではないか?と思う。

 

今から20年後ぐらいになると、ジャンプよりマガジンの方が売れている可能性がなくもないと思うのだ。 アニメとどんどんタッグを組めばいける気がする(それでも難しいと思うが)。

 

漫画業界は、アニメ映えする作品を作っていくのがキーなのかもしれない。

 

そして、これからは中国、韓国発の漫画も侮れないはずである。

未来の漫画業界の競争は過酷である。

 

と素人は思う。

 

 

けどジャンプの輝きをまた見てみたい気持ちもあるよね。

純文学はなぜつまらないと言われるのか? というか、芥川賞はなぜ暗い話ばかりなのか?

             純文学はお好きですか?

 

 

と聞かれたら、なんと答えるでしょうか?

 

恐らく、つまらないという意見が一般的には多い気がする。

僕の意見は、好きな作品もあるが、正直面白くない作品もある。

というか、後者の方が多いという印象が強い(好みではない作品が多いと書くべきでしょうが)。

それに、なんであんなに暗い話ばかりなのだろう?と思うのだ。

 

新人賞受賞作品や芥川賞受賞作品を読んでみても、まぁ暗い話が多い。

(嫌いではないけど)

 

暗い話の方が物語に装飾がしやすいことは理解できるのだが、それにしてもだ。

 

今まで普通だったのに、最後の一ページで暗いオチをつけた芥川賞候補作品を最近読んだので尚更思っている。

 

それが純文学の定義なのだろうか?

選考委員はそんな作品を沢山読んで心が疲弊しないだろうか?

 もうちょっと脱却した何があってもよろしくね?と思うのは異端なのか。

 

昨今では、本屋大賞作品の方が、売り上げ面、エンタメ面でも優れているものが多い気がするのだ。

 

まず、そんな純文学とは何か?その定義を調べてみる。 

 

・純文学の定義  

純文学とは、文芸誌から発表される作品が純文学と呼ばれる。

(まぁ定義は割とあっさりですよね)

 

そして、主に有名な5大文芸誌なるものが存在し、

Wikipediaによると日本ではあと他4誌ほどの文芸誌があるのみ。全部で9誌のみ)

 

その5大文芸誌とは、

 

文學界文藝春秋

新潮(新潮社)

群像(講談社

文藝(河出書房)

すばる(集英社

 

である。有名な出版社ばかりですね。

 

そう考えると、逆にまたクエスチョンマークが生まれませんか?

 

名だたる出版社だらけなのに、そこから出版される純文学はイマイチ面白くないものが多いのです。知名度が高い芥川賞受賞作品でも。

 言ってしまえば、商業的ではない。

 

しかし、逆に言えば、売り上げを気にしない姿勢はクールで威厳があるような感じがし、難しいところである。

 

純文学では娯楽性より芸術性を評価されるらしいが、純文学を読んでいても芸術性をいつも感じることはない(自分の感性の問題だろうけど)。

2000年以降で文体が印象に残った作品はパークライフ、アサッテの人、穴、きことわぐらいかもしれない(受賞作品全部読んでいませんが。すみません)。

コンビニ人間や乳と卵、1R1分34秒(オチ)などは話は良かったが、文体が印象的か?と聞かれたら、凡人の僕にはわからない。

そもそも純文学に芸術性以外の起承転結や比較的明るい話を求めることがナンセンスなのだろうか?

 

ところで、芥川賞と対をなす直木賞は純文学ではなく、大衆文学括りであり、

 

芥川賞からすれば、商業性、エンタメ性性は直木賞に任せた!!みたいなノリがあるのを感じる(近年の歴代直木賞受賞者は芥川賞より売れっ子な人が多いと思う)。

 

 

ただ、純文学を読んでいると、話の内容がそんなにでも語彙力、引き出しが凄いと感心する事が多い。

 

そこを楽しむものだと言われたら、確かに楽しめる気もしてくる。

 

コーヒーで例えると、まず好き嫌いで分かれ、嫌いならそこで遮断して終わり、

好きなら豆の種類や焙煎方法などに興味が移っていく感じなのだろうか?

 

どこか批判的なブログになったが、純文学に対して、自分には書けないものばかりだから勿論リスペクトはあります。

 

そして今、ちまちま純文学を読んでいる途中です。

案の定、暗いはなし~。